『君の名は。』を観終えて。

映画『君の名は。』を観てきました。
久しぶりに素敵な映画を観たのと、もうひとつ理由があって(その理由は最後に記します)、めずらしく感想をしたためようと思います。物語の内容にふれるのでまだ観ておられないかたはネタバレにご注意ください。
映画を観た感想なので、作品を観たかたにしか伝わらない文章になっています。また想いを伝えようとするのですが語彙が乏しくうまく言葉にすることができず、つたない文章になっています。その点をご了承のうえ、お付き合いいただけますと幸いです。

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ろこが視聴前に知っていた作品情報は『君の名は。』の予告動画とRADWIMPSによる主題歌「前前前世」のMVでした。


このふたつの動画の情報から、なんとなくではありますが、2000年に発売されたKeyの美少女ゲームAIR』みたいな話なのかな、と思いました。
なぜそう思ったのかを言葉にするのが難しくて。なぜ難しいのかと問われると、そもそもろこは『AIR』をプレイしたことがなく、『AIR』についての情報は『AIR』発売前雑誌情報と『AIR』オープニングムービーでしか内容を知らないのです。

君の名は。』も『AIR』も映像的に空が美しいとか、物語的に少年少女の出会いとかの共通点が挙げられるのですが、それ以上に『君の名は。』が『AIR』みたいな作品だと思わせたのは、『君の名は』の主題歌になっているRADWIMPS前前前世」の歌詞を読んだからでした。本当は歌詞を掲載したかったのですが、はてなブログJASRACと許諾契約を締結していないので残念ながら掲載できなくて。お手数ではありますが検索してRADWIMPS前前前世」の歌詞をご覧ください。「前前前世」は『君の名は。』のために作られた曲ですが、歌詞を読んで『AIR』のオープニングムービーと発売前雑誌情報が思いだされ、「『AIR』ってこんな話だったのだろうな」と勝手ながら納得して、で、「ふむん。ならば『君の名は。』は『AIR』みたいな話なのか、と思いにいたった感じでした。
そのように勝手に「ふん、ふん、ふん」とひとり合点して、あらためて「前前前世」を聴いて『君の名は。』の予告動画を観ると、『君の名は。』という作品のすべてが「前前前世」の歌詞に描かれている気がして、歌詞のなかには素敵な言葉が散りばめられていて、『君の名は。』をまだ観てはいないのですが「なに、これ、すごい!」と感動で涙があふれました。だって《君》と《僕》が出会う、それもただただ出会う世界が描かれるのだと思うと鳥肌が立つじゃないですか。もちろんまだ観ぬ作品なので「もしかしたら違うかもしれない」との不安はありました。でも「これはきっとすごい作品に違いない」と期待感が高まりました。期待感が高まりすぎて、「上映中、感動が押し寄せるあまり、最後まで観られなかったらどうしよう」と不安になるほどでした。
そんな感情を抱きながら『君の名は。』を観ることになりました。

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ここからは『君の名は。』本編映像を観て感じたことなのですが、ろこ、あまり記憶がよくなく、一度しか観たことのない作品を語るのは得意ではないので、記憶違いがあったならば申し訳ないです。
本編映像のはじまりはコミカルな描写が多くて、ろこは観ていてとても微笑ましかったのですが、客席からも自然な笑い声が聴こえて「客席を物語に惹きつけるのがうまいなあ」と思いながら観ていました。しばらく観ていると「え?! もうここで?!」とかなりはやい段階でRADWIMPS前前前世」が流れて、それもよくよく耳を澄ませて聴いていると、ろこが事前に観ていたMVの歌詞とすこし違っていて、「え?! 違う?!」と焦って聴き逃さないようにしたかったのですが、曲が流れるのと同時に瀧くんの語りが続いていたのでそれを聴き漏らすこともできず、結局は瀧くんの語りに集中していました。でもろこの聴き間違いでなければ、本編映像で使われていた「前前前世」の歌詞はより物語になぞらえていて素敵でした。
いまどのように感想を述べていこうかと頭を悩ませているのですが、『君の名は。』の感想を文字で述べるのが難しいと感じるのは演出の仕方にある気がします。作品をご覧のみなさまはすでにご存じのように、瀧くんと三葉は入れ替わりを起こすのですが、実はその入れ替わりはおなじ時間軸で起こっているのではなく3年の時間差が生じています。それは本編映像が進むにつれてわかっていくことなのですが、その3年の時間差というのは、この作品は瀧くんと三葉のふたりが主人公ではありますが、本編映像はおもに瀧くんの視点で語られているので、瀧くん視点で考えると瀧くんが過ごしている時間が現在で三葉が過ごしている時間は過去になります。
本編映像がはじまって間もないころに瀧くんと三葉が現実に出会っているシーンが映しだされたり、中盤では瀧くんが組紐をリストバンドにしているのがわかるのですが、瀧くんと三葉の物語をまだよく知らないろこは「現実世界での出会いの映像はいつになったらわかるのだろう?」、「瀧くんのリストバンドの組紐はいつの間に手元にあるのだろう?」と疑問でした。ただその疑問も本編映像が進むにつれ(瀧くんが過ごしている現在の3年前の過去に糸守町で彗星の破片の衝突が起こったことを瀧くんが認識しはじめて以降に)、描かれることになります。ろこはここの演出以降からものすごく感動しはじめることになります。
本編映像の演出では彼らの出会いは夢のなかで入れ替わりが起こり、それが夢ではなく現実で起こっているのだと認識することで出会っているのだとろこははじめ思っていたのです。でも瀧くん視点からすると、瀧くんと三葉の入れ替わりが起こる3年前にすでに三葉に東京で出会っていて、会ったこともないだれともわからない女の子に名前を告げられ、組紐を渡され、それを受け取り、リストバンドとして大切にしていたのです。入れ替わりという大きなエピソードが描かれているのですが、瀧くん視点で考えると、入れ替わりという大きなエピソードがはじまる以前に三葉と瀧くんは出会っていて、瀧くんにとってはそこからずっと三葉との物語がはじまっていたのです。ろこがそのことに気づいた瞬間、瀧くんにとって三葉との出会いは偶然ではなく、本当に《君》である三葉を《僕》である瀧くんが探しだす、《君》と《僕》が出会う運命の物語なのだと感動して、そう思って以降はずっと涙が止まらなくなりました。
疑問といえば「三葉はなにをきっかけで髪を切ったのだろう?」という思いもありました。瀧くんが原因なのはわかるとして、その明確なきっかけはなんなのだろう?、と。これも本編映像が進むにつれわかっていくのですが、ろこは三葉がなぜ髪を切ったのかがわかり、「なるほどなあ」と思うと同時に、三葉が過ごしている時間の物語にせつなくなりました。三葉視点からすると、三葉は瀧くんのことは入れ替わりが起こることによって存在を知り、どこに住んでいるかもどんな少年なのかもわかったうえで会いに行っています。入れ替わりという運命の出会いがあって現実に瀧くんに会いに行っているのです。しかしそのときの三葉は3年の時間差があることを知りません。瀧くんが自分を知らないと知ったとき、入れ替わりの記憶は自分にだけ残っている三葉の片思いの物語になってしまうのだな、とろこは感じました。三葉は失恋したと感じた。だから髪を切ったのだ、と。この三葉のせつなさは本編映像のラストにまで続くことになります。
本編映像をみていくと大きなエピソードにみえる描写は入れ替わり以外に、彗星の破片の衝突による被害者がでることの阻止(三葉のなかに瀧くんがいる状態)、黄昏時の出会い、彗星の破片の衝突による被害者がでることの阻止(三葉自身)というものがあります。とくに彗星の破片の衝突による被害者がでることの阻止に関しては、本編映像でも三葉のおばあちゃんやお父さんに三葉のなかに入っている瀧くんの存在を感づかれたり、テッシーやさやちんを大いに巻き込んだり、三葉が過ごしている時間のなかでもかなりの大事に発展しています。しかしながら本編映像では彗星の破片の衝突があった事実のみが描かれていて、三葉がどのように動いてどのように町民たちが助かったのかということは具体的に描かれておらず、瀧くんが過ごしている時間のなかで新聞や雑誌の記事の見出しだけでしかわからないようになっています。その瞬間、ろこはそのときになぜ『君の名は。』では大きなエピソードにみえるシーンの詳細が描かれなかったのか、2点のことを考えました。ひとつは三葉はお父さんへの彗星の破片が衝突することを伝えるのに成功し、新聞の見出しにあったようにお父さんの働きによって町民を避難させることができたので、それ以上の描写をしなかった。もうひとつはそもそもこの物語は、三葉と瀧くん、《君》と《僕》が出会う、ただただ出会うための物語であり、黄昏時の出会いを経たいま、これからの未来は《僕》が《君》を見つけだす物語なので、大きなエピソードのようにみえる彗星の破片の衝突の事実さえも些細なことであり、三葉や瀧くんが互いに名前を忘れても《僕》が《君》を見つけだす物語は進むように、彗星の破片の衝突の被害者がでることがない《僕》が《君》を見つけだす世界もただそこに存在し淡々と続いていくので、あえて本編映像に描写しなかった。この2点を考えました。後者にもうすこし説明を付け加えるならば、これからの未来は《君》と《僕》が出会う運命の物語である以上、彗星の破片の衝突はあったとしても被害者がでないという世界に書き換えられ、またそれを詳しく描写する必要はなかったのかな、と。
上記の2点どちらなのだろう? しばらくはそんな疑問が湧いていたのですが、物語は糸守町に彗星の破片の衝突は起こるも町民が避難訓練をして奇跡的に被害者が出なかった物語から8年後、三葉と瀧くんの身体が入れ替わる物語から5年後にへと淡々と進みます。大きなエピソードにみえた出来事から数年後の描写は瀧くんの視点で描かれています。入れ替わりも、黄昏時の出会いをしたことも、相手の名前も忘れているのですが、瀧くんのなかにはこころのどこかで「誰かを探している」思いだけが残っていて、でも日常は淡々と、ただただ淡々と過ぎていきます。日常が淡々と過ぎている描写だな、とろこが感じたのは、入れ替わりの際に出会ったことのあるテッシーとさやちんがカフェで会話をしているのを瀧くんはふとみかけるけれどもそれ以上は気に留めなかったり、5年前に一緒に糸守町へ行った同級生の司がその事実について言及しない日常が続いていたり、アルバイト先の奥寺先輩との会話で5年前に糸守町に行ったことが話題にでるも、それほど掘りさげる話題にはならず、また奥寺先輩は久しぶりに会った瀧くんへ「キミもしあわせになりなさい」(セリフがうろ覚えで申し訳ないです)と言って去っていくシーンなどです。これからシーンにはそれぞれに思うことがあるのですが、ろこ、うまく言葉にできなくてもどかしいです。ただ思ったことは、三葉と瀧くんにとって大きなエピソードにみえる彗星の破片の衝突が起こったあとなのに、そんなことを思い起こさせない淡々とした日常描写が続けば続くほど、なぜ大きなエピソードの詳細が描かれなかったのかを考えた先ほどの2点について、これは後者なのだろうな、との思いを強めました。
そしてその後もなにげない日常を過ごす三葉と瀧くんですが、ある日、すれ違う電車の車窓でお互いに目が合います。するとふたりともなにかを思いだしたかのように、電車がすれ違ったあとすぐ次の駅で降り、お互いが下車したであろう駅に向かって走りだし、お互いを探し合います。しばらくして歩道橋の上と下で三葉と瀧くんはお互いを見つけます。それぞれ歩み寄り距離を縮めていくのですが、お互いにはっきりとした記憶はありません。そんな状況では相手に話しかけるにはかなりの勇気が必要です。お互いに話しかけることもできずに、三葉は階段を降り、瀧くんは階段を登りすれ違います。でもすれ違った先で瀧くんが振り返り「どこかで会ったことがありますか?」(セリフがうろ覚えで申し訳ないです)と三葉に声をかけます。三葉はその言葉に涙を流します。そして瀧くんの目にも涙があふれます。このあたりは、ろこ、号泣で肝心のラストがどうだったか記憶にないのです(お恥ずかしいです)。なんというか、このあたりではもう、新海誠監督はすごいな、と思っていて。ろこ、映画作りや物語作りのセオリーとかはわからないですが、『君の名は。』という作品は入れ替わりや彗星の破片の衝突が大きなエピソードである作品だと思い込みがちだと思うのです。でも実際はそんな大きなエピソードにみえる事柄は些細であって、瀧くんにとっては入れ替わりが起こる3年前の彗星の破片の衝突が起こる前日、三葉が瀧くんに会いに東京に来たとき、会ったこともないだれともわからない女の子に名前を告げられときから、ずっとずっと三葉のことだけを探してきており、再び東京で三葉と出会い「どこかで会ったことがありますか?」なんて陳腐な言葉だけれどもその言葉には三葉と瀧くんにしかわからない想いが詰まっている言葉であり、そうやってこの東京での再開のときまで、どんな出来事があろうとも、たくさんの記憶が喪われようとも、どんなに普通な日常を過ごそうとも、三葉を瀧くんが、《君》を《僕》が必ず探しだす、《君》と《僕》は出会うべくして出会う運命の物語なのだな、と思ったときに、最初からRADWIMPS前前前世」で歌われていたことだ、と気づいて、本当にすごいと思って泣き通しでした。すごいよ、新海誠監督。すごいよ、RADWIMPS

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ここまで映画を観たときに思ったことを覚えている限りばばばばっと書きだしました。いま思いだしても涙があふれています。なにがすごいって、いろんなことがすごすぎて、なかなか端的な言葉に落としこむのが難しいのですが、いちばんに感じたことは「まず音楽ありきの映画だな」ということです。もちろん企画や物語は新海誠監督のなかにあることなのでしょう。ただ本編映像公開前から主題歌のなかの1曲「前前前世」のMVは公開されていて、ろこはそれを聴いて《君》と《僕》が出会う物語だと感じていたのですが、その期待を裏切られることなく、裏切られるどころかろこが感じていた以上に《君》を《僕》が探しだす物語すぎて、ただただ感涙です。こんな主題歌らしい主題歌、素晴らしすぎる。もちろん「前前前世」以外の主題歌(すみません。曲と曲名が一致しないのと、そもそも曲名を覚えていなくて)も物語をなぞらえていると思うのですが、本編映像公開前からMVが公開されているということにおいて、やはり「前前前世」は特別な1曲だと思います。
そんな風に「前前前世」が与えたイメージが強いのもありますが、ろこ的に『君の名は。』の本編映像を観たあとも思うことは、瀧くんが主役の物語だな、ということです。入れ替わりが起こった時期は同時なようでいて3年の時間差があるので、瀧くんよりも三葉のほうが先に瀧くんに出会っていて、そして日常(現実世界)の瀧くんを探しに東京に行っていますが、夢で(実際には現実で)先に瀧くんと入れ替わりという非日常を経験したあとの日常での行動であって(そしてそれは三葉が宮水神社の巫女ということがあってそのようになった)、三葉には瀧くんと出会うということにアドバンテージがあったのではないか、と思うのです。反対に瀧くんは、入れ替わりが起こる3年前に会ったこともないだれともわからない女の子である三葉に突然電車で出会い当惑していたのに、三葉は別れ際に名前を名のり組紐を瀧くんに渡し、瀧くんはそれを受け取ります。瀧くんにとってはそれがはじめての三葉との出会いでしたが、その受け取った組紐を捨てることなくリストバンドにします。瀧くんにとって三葉との出会いは、入れ替わりという非日常での出会いではなく、日常のなかでの出会いが最初なのです。ろこ的に『君の名は。』で重要なのは入れ替わりや黄昏時などの非日常の出会いが重要なのではなく、あくまでも日常のなかでの出会いが重要だと考えていて、巫女である三葉は入れ替わりという非日常が起こることによって先に瀧くんと出会いましたが、なにげない日常に突然現れた不思議な女の子である三葉との出会いを大切にした瀧くんが、その最初の出会いから8年後になにげない日常で三葉を再び探しだし出会う、『君の名は。』は瀧くんにとっての運命の物語だと思っています。
先ほど三葉には瀧くんとの出会いにアドバンテージがあったと記しましたが、それは瀧くんよりも3年も前に入れ替わりという非日常で瀧くんと出会っている以外にも描かれていたように感じました。黄昏時のとき「お互いの名前を忘れないように」と瀧くんは言ってマジックで名前を書くふりをして三葉の手に「好きです」(うろ覚えで申し訳ないです)との言葉を残します。黄昏時の1日前に三葉は日常の瀧くんに会いに東京へ行き、瀧くんに自分のことをわかってもらえなかったので、三葉は自分の想いを伝えることなく失恋したと勘違いし、髪を切ります。でもその翌日の黄昏時には瀧くんに告白されるのです。三葉からはしなかった(できなかった)告白を瀧くんはするのです。黄昏時から8年後の日常で再び東京で瀧くんに出会うまで、三葉も瀧くんの名前を忘れているとの描写ではありましたが、階段ですれ違うとき三葉から声をかけないのは、記憶が薄れているにせよ8年前に三葉自身が東京に来て瀧くんに声をかけたときに気づいてもらえなかった気恥ずかしさが残っているのかも、と思いました。瀧くんから声をかけられた瞬間に三葉は大粒の涙を流します。入れ替わりが起こったときも三葉や瀧くんは涙を流していましたが、そのとき以上の涙を三葉はぼろぼろと流します。たぶんそれは瀧くんがこころのどこかで探している誰かである三葉のことを思ってきた以上に、三葉には非日常での瀧くんとの記憶がすこし残っていたのでは、と感じました。瀧くんよりも瀧くんとの出会いの記憶があるだけ、また瀧くんよりも3年間長く瀧くんとの再会を待っていたぶん、三葉にとって再会までの時間はとてもせつなく長かったことと思います。

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ここまでいろいろとしたためてきました。どれも本編映像を観ている瞬間瞬間に感じたことなのですが、あらためて言葉にしたためるとまどろっこしくなってうまく言葉にできなくて嫌になります。ここまでお付き合いいただいき感謝です。ありがとうございます。
最後になりましたが、文頭にもしたためましたが、今回『君の名は。』の感想をしたためようと思った理由を述べます。
君の名は。』の本編映像が終わり、エンドロールが流れ、それを眺めていたろこは、この作品は「会いたくても会えないひとに会いたくなる映画だな」と思いました。糸守町での彗星の破片の衝突は5年前の東日本大震災の影響を受けている描写だと思うのです。新海誠監督がこの作品を描きたいと思われた時期についてはろこは知りませんが、公開時期を5年後のいまにされたのはとてもいい時期だな、と思っていて。これは東日本大震災とは別のろこ自身のことなのですが、東日本大震災が起きた翌月の4月にろこは実の姉を喪っています。精神医学的にはひとは1年が経てば誰かの死を受け入れることができるらしいのですが、現実はそう簡単にはいかなくて、ろこは姉の死をなかなか受け入れることができませんでした。でも5年が経ったいまは姉の死を事実として受け入れることができるようになりました。もちろん姉の死はものすごくかなしいことですし、できればなかったことにしたい、姉が生きている世界をいまだに望みます。でも5年が経ったいま、それは実現しないないものねだりであり、いつまでも過去に縛られているな、とろこは思うようになりました。姉を喪った現実はつらくかなしいことだけれども、そればかりを考えていてはろこはろこ自身を生きていけないのだな、そろそろ自分を生きていこう、そう考えるようになりました。この思いにたどり着くまでに5年の時間が必要でした。
新海誠監督が東日本大震災にどのような思いを抱き、糸守町での彗星の破片の衝突を描いたのかはわかりません。また東日本大震災で大切なかたを喪われたかたがたの気持ちをろこがわかることは難しいことでしょう。ただろこもおなじころに大切な姉を喪っていて、つらい過去の記憶や事実は消えないけれど、いまろこは自分を生きようとしています。そんなときに『君の名は。』を観て、会いたくても会えないひとに会いたくなる、亡くなった姉にただただ会いたくなる、つらさだけではないそんなあたたかな感情を抱けたことがしあわせでした。

大切なひとを喪ったひとは大切なひとをうしなったそのときから時間が止まってしまうことがあります。そのかなしみのすべてをろこは理解することはできないでしょう。ただあなたがすこしでもあなたらしく自分を生きていけますよう、こころから祈っています。ろこもがんばって自分を生きていこうと思います。

最後まで駄文、長文にお付き合いくださったあなたに感謝します。
ありがとうございます。わふ。